DO-MANNAKA de Alternative

走るポップ・リスナー、その魂のゆくゑ

SAKEROCK『SAYONARA』

SAYONARA

SAYONARA

 カルチャーやムーヴメントをつくるレーベルがある。たとえば、90sUSにおけるグランジブームを作ったのはSUB POPであったり、マンチェスター周辺のダンスミュージックを発展させたのはFACTORYであったり。そして、ここ東京で既存の「ロック」「ポップ」に捉われず、多種多様なジャンルを横断する作品をリリースして21世紀のシティポップを生み出す萌芽を育てたレーベル、それがSAKEROCKのいるカクバリズムです。

 私自身は東京の文化に興味を持ち出してから『ホニャララ』『MUDA』とSAKEROCKのアルバムを聴いてきて(要するにかなり後発のファンです)、“東京にはえらく力の抜けたバンドがいるもんだなあ”と思ったものでした。『ホニャララ』におけるジャケ・タイトルから始まる脱力感、そしてフニャフニャのコーラスと粗暴な演奏のギャップでいきなり爆笑してしまった『MUDA』。力抜けすぎ、そして隙だらけ。しかしその隙のあいだに、上質のファンクミュージックと似たような意志と情熱を感じて、いつのまにやらその隙にスッポリと収まっていたのでした。

 ただ、私がSAKEROCKの音楽に触れるのとほぼ同時期に各メンバーの個人活動が活発化しはじめ、バンドとしての活動はほとんど行われなくなってしまいました。これもSAKEROCKらしい懐の深さがもたらした副産物だと思うのですが、これによって私個人としては全くSAKEROCKの生演奏に触れられないまま時が過ぎていくことになります(1回だけ、カクバリズムの10周年イベントで観れるチャンスがありましたが、何か用事があってダメでした。今思うと凄く悔しい)。

 「仕方ないから、サケと同じレーベルに所属しているアーティストでも聴いてみようかな…。」と、ライブを観れない不満解消?のために掘り下げる気になったのが、カクバリズムというレーベル。ここに所属しているアーティストたちが、また良いこと良いこと。cero、ユアソン、キセル二階堂和美さん、ちょっと後には鴨田潤さんによる(((さらうんど)))も出てきました。これらを聴いて、レーベルアーティスト全体に共通する「肩肘の張らなさ」「幅広い受容力」がとても東京っぽいなあ、と思ったものでした(ある意味、広島在住の二階堂和美さんをすんなりレーベルカタログに溶け込ませているのも実はとっても東京らしい部分かと)。特にceroは音楽ジャンルに一切拘泥することなく愉しめる音楽で、のちに東京インディーを追う方々と共に入れ込んでいくことになるのですが、それでも常にカクバリズムの支柱=SAKEROCKである、という意識は常にありました。

 そんなSAKEROCKがとうとう「解散」する。最初にこの報を聞いたときは、残念ではあるけれど「まあ、仕方のないことなのかな」と思いました。ソロ活動の充実、星野源さん言うところの「他に戦う場所ができた」ことでSAKEROCKとして続けていく意義が客観的にも薄れていたし、ceroなどの台頭でレーベル、そして東京のインディーポップのけん引役としての役割も次の世代に移していく必要がある(まあ、本人たちはそんな役割意識は全然持っていなかったでしょうけど)。ある意味、終わらせるには丁度良いタイミングなのかもしれません。残念ですが。

 しかし、ただでは終わらせないのがSAKEROCKの粋。結成時のメンバーを再結集させて、最高に輝く1枚のアルバムを完成させました。それがこの『SAYONARA』。崩れかけていたものをもう一度集めて輝かせる、という意味では先日出たDeath Cab For Cutieの『Kintsugi』に近いものがありますが、はっきり言って、美しさや煌めきといった部分ではデスキャブですら及ばないほどの大傑作になっています。

 まずはとにかく「SAKEROCKらしい」ということ。冒頭がベストアルバムにも収録された「Emerald Music」の再録で、SAKEROCKのイメージを3分間のポップソングに完璧に集約したこの曲のおかげで「解散アルバム」の印象は一気に吹き飛んで「帰りたい場所にようやく帰ってこれた!」という歓喜に満たされます。

 その一方で、これは少し意外だったのですが、これまでの歴史を総括するうえでソロワークの経験も外していないのが嬉しかったです。特に効いているのが「Memories」における星野源さんのコーラス。以前のSAKEROCKでは、コーラスはフックか、最悪ネタとして使われるのが主でしたが、ソロ活動を通して劇的に上手くなった星野さんの歌が「SAKEROCKの新たなメロディライン」として機能しているのが素晴らしい。伊藤大地さんのドラムも、様々なアーティストへのゲスト参加を経て、とりわけテンポの遅い曲での叩き方がハマるようになった気がします。一方、ハマケンさんはあれだけヘンなソロ活動をしてきながら結局いつも通りな感じなのが逆にすごい(笑)。バンドは個人を映し出す鏡なんだなあ、と聴いていてしみじみ感じました。

 そんな「SAKEROCKらしさ」のプレイバック、個人技量の最大限の発揮を経て紡がれる1曲1曲は、やはりなんとかしてこの終わりを綺麗にまとめたい、美しく終わらせたい、という意識で統一されているように感じます。「Ballad」から「Sneaker Train」に至るまでの中盤に泣かせる曲から極度にヘンな曲までバリエーション豊かに取り揃えているのは、これまで様々な曲を生み出し、様々な文化と手を取り合ってきたSAKEROCKそのものを描いているようでもありますし、最後に「Nishi-Ogikubo」へ帰ってきて「SAYONARA」で盛大にシメる、というのはSAKEROCKの究極の「ホーム感」を表現した終わらせ方であると思います。かなりカツカツのスケジュールでありながら、ここまで完璧に作品のストーリーをまとめあげられたのは、文学的に見ても素晴らしいことなのではないかと思います。

 さて。このアルバムを購入するときに1点だけ引っかかったのは、「やはり『お別れのアルバム』だから、時期が過ぎたら聴かなくなってしまうのでは…?」ということ。フッと沸いたこの疑問に対する自分自身への答えは、全力で「NO」です。その理由は前述した作品自体の普遍的・圧倒的美しさもありますが、それ以上に
①東京インディーの帰結点かつ始発点でもあるため、きっと何度でも振り返ることになるから
②「さよなら」という言葉自体、私たちの毎日にとてもありふれたものだから
以上2点が大きな理由です。

 ①について。SAKEROCKは色々な文化と関わりあいながら、カクバリズムというレーベルを大きく成長させた功績があります。これはずっと消えないし、カクバリズムからはこれからも面白い作品が生まれていくでしょう。そのバックボーンのひとつとして、この作品は(少なくとも私の中では)残っていくでしょう。

 ②について。これについては、先日出版された「CON-TEXT」という音楽雑誌がちょうど「さよなら」をキーワードにしていたので、そのあとがきを参考として引用します。

 不思議なことに、二度と会うことのできない人にも、僕らはやっぱり「さよなら」と言うのだ。人生は何が起こるかわからない。だからもしかしたら、それが本当に最後の別れになってしまった時にも後悔しなくて済むように、毎日「さよなら」をしているのかもしれない。
(『CON-TEXT vol.2』 清水祐也さんによるあとがき)

 この言葉を読んで、ふとCD・レコード棚を見ると、なんとなくすべての作品に「SAYONARA」というタイトルをつけてもしっくりくる、そんな気がします。たくさんの「さよなら」の中にこの『SAYONARA』も大切にしまっておき、時には思い出して引っ張り出したり、そこからまた新しい出会いを探しに行ったりできたら最高だな、と思います。